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27 白河宿〜終 女石追分  福島県白河市

 遂に最後の宿場、白河宿に到着した。

 今も昔も、みちのくの玄関口である白河。 よく知られているように、奥の細道の冒頭文にも「春立てる霞の空に白河の関越えんと……」と白河の名称が登場する。

 本陣や脇本陣などの場所を確認しつつ、ひとまず女石追分を目指す。 白河の街の探索は、女石追分から戻ってからにすることに。

 白河の宿場を抜け、左に曲がる。間もなく、東北本線の高架を潜る。

 そして、阿武隈川を渡る。実はこの時、自分は驚きの念に駆られたのだった。

 私は恥ずかしながら、白河(福島県南部)に阿武隈川が流れていることを知らなかったのだ。 郡山や福島市、そして宮城県南部を流れている川という印象を勝手に持っていた。 その認識は間違いではなかったが、川の上流の位置を把握していなかったのだ。

 そこから今日の目的地まで、わずか1km弱である。 この2日間のことを振り返りながら、道を進む。

 15時34分、今回の旅の第一目的地、女石追分に到着。 日本橋からここまでが、幕府の道中奉行が管轄していた“狭義”奥州街道である。

 近くのバス停に、女石の文字があった。しかし、案内板らしきものはない。 実際には合ったのかもしれないが、私は気付かなかった。

 左手には、「仙台藩士戊辰戦没之碑」という碑がある。 その周りには、「戊辰戦争 白河口の戦い」と書かれた藍色の旗も複数立っていた。

 既に数々の慰霊碑を見てきた通り、白河は戊辰戦争の激戦地となった。 仙台藩士も、白河口の戦いで150人ほどが亡くなっている。 この碑は、その方々の慰霊碑のようだ。

 この女石追分から西方面の道が、会津若松へ伸びる街道(会津街道または白河街道)である。 そして東への道が、須賀川・郡山・二本松・福島方面へ伸びる、(広義)奥州街道である。 奥州街道の宿場も、28番目の根田宿、29番目の小田川宿、30番目の太田川宿……とまだまだ続いていく。

 前年の夏に、岩手の好摩から宮城の仙台までは自転車で走った(全て奥州街道沿いという訳ではないが)。 白河から仙台まで、およそ160km。2日あれば十分な、1日でも何とかなる距離だ。 今日はここまでだが、いつかこの区間も走ってみたいものだ。

 何はともあれ、これにて(狭義)奥州街道を制覇。 次は、日光街道だ。



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