23 鍋掛宿〜24 越堀宿 栃木県那須塩原市(旧黒磯市)
そんな快走路を走っていると、左手に鍋掛の一里塚を示す木製の看板が見えた。 鍋掛の一里塚は、江戸から41里を示すものだ。距離にして、160kmちょっと。 今は本来の場所から少し移動した場所にある。そのため、少し階段を上らなければいけない。 その一里塚の奥には、鍋掛神社(愛宕神社)がある。一里塚の看板の左隣に説明板があったので、説明を流し読みする。 鍋掛神社は江戸前期には既にあったらしい。 ちなみに、看板には愛宕神社の本山は京都市左京区愛宕町にあると書いてあったが、 京都在住である私の勘違いでなければ、左京区は右京区の間違いである。 京都市の西側、保津川下りで有名な保津峡にサークルで何度か行ったが、愛宕神社はその近くにあったはずなのだ。 そうすると、東側の左京区ではなく西側の右京区が正しい、ということになる。 その先のコンビニのある交差点が、鍋掛の交差点。旧鍋掛宿は、ここの交差点より先である。 街の中にあった案内標識には、芦野まで9km、白河まで28kmとあった。 鍋掛宿の写真撮影スポット(自分で勝手に決めました)、正観寺に到着。 門の前には大木があることを下調べで確認したのだ。説明板には、樹齢250年の枝垂れ桜とあった。 250年前と言えば、享保の改革と寛政の改革の間くらいだったかな……と中学校の日本史の知識を思い出す。 同時に、フランクリンが凧を揚げて雷が電気であると突き止めたのも確か1750年くらいだった気がするな……と街道とは全く関係ないこともぼんやり考えていた。 写真撮影を終え、再出発。正観寺の隣の消防小屋の前には、「鍋掛宿消防小屋」と書かれた石碑があった。 鍋掛宿と隣の宿場の距離は1kmほど。ただし、その間には那珂川という川が流れている。 江戸の昔は橋などないので、川の右岸と左岸両側に宿場があった、という訳だ。 今は当然橋がかかっているので、ものの数分で渡り切ってしまった。那珂川を見下ろした景色は、「なか」「なか」のものだった。 ちょうど最も葉が青々としている時期で、見ていて気持ちが良かった。 日差しが強くなければ、もっとゆったりと景色を堪能しても良いと思った。 おそらく紅葉の時期は、また違った景色なのだろう。 |
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