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12 小山宿〜13 新田宿   栃木県小山市

 現在小山 (〇おやま ×こやま) は、鉄道の要衝地として知られる。

 東北新幹線の駅もある小山駅。そこから西へは、桐生・前橋といった群馬県の都市へ行ける両毛線が伸びている。 また東へは、下館(現:筑西市)・水戸方面へ伸びる水戸線へ小山駅で乗り換えることができる。

 自分は大学生になってから一度、ここから両毛線に乗ったことがある。あの時は前橋から高崎に出て、そこで上信鉄道に乗り換えて富岡製糸所に行った。 まだ当時は世界遺産になっていなかったので、富岡製糸所はあまり人はいなかった覚えがある。

 そのように、「電車の乗り換えの場所」のイメージしか持っていなかった小山。しかし江戸時代には、日光・奥州街道の12番目の宿場町だった。 なかなか規模が大きい宿場だったようだ。

 確か事前に調べたとき、旧道は「小山宿通り」と名がつけられていたはず。だが前述の通り、時間が押しており距離を稼ぎたかったのでここでは新道を進んだ。 その新道沿いに、小山の街の歴史を語る上で欠かせない須賀神社がある。

 この神社にどんな歴史があるのか。実はここが、関ヶ原の合戦のきっかけになった「小山評定」が行われた場所なのである。

 日光・奥州街道編では初めてだが、ここで8割自分の備忘録用のまとめを……
 1598年に豊臣秀吉が亡くなった後、後継者を巡って石田光成と徳川家康の勢力争いが起こる。 1600年に家康は、会津(福島県)の上杉家を討つために、江戸からここ小山に来ていた。 その時、石田光成の挙兵を知ることになる。 直ちに会議が開かれ、会津征伐を中止し大阪城に向かい光成を討つという決定を下した。 その結果家康は、関ヶ原の戦いに勝利をすることができた。 この徳川家の運命を決める重要な軍議が、「小山評定」と呼ばれるものである。
 それにしても、「このサイトの運営者はこんなことも知らないのか」とお叱りを受けてしまいそう。 このサイトをご覧になっている歴史ファンの方、どうかお許しください……

 小山評定の碑が、神社の入り口のすぐ右側(北側)に置かれていたので、写真をパチリ。 日付を見ると、設置されてからまだ2年しか経っていなかった。 下調べの段階では、この碑についての情報が手に入れられなかったことも頷ける。

 なおこの神社のすぐ隣、一本隣の旧道には史跡になっている脇本陣があるようだが、今回はスルーさせてもらった。

 日焼けに悩まされながらも、先ほどの栄養補給のおかげで進む元気は完全復活していた。 いつか乗った両毛線の線路を越え、さらに北上していく。


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