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01 千住宿〜02 草加宿   東京都足立区〜埼玉県草加市

 千住は、松尾芭蕉の「おくのほそ道」の出発の地として知られる。 「月日は百代の過客にして……」という序文や “草の戸も住み替はる代ぞ雛の家” という句などを中学校の国語の時間に暗記させられた覚えがある。

 ただしこの出発地が、隅田川の北側の北千住(足立区)なのか南側の南千住(荒川区)なのかは分かっていない。 未だにどちらかを、二つの区が争っている「千住論争」の話を聞いたことがある。

 そして日光・奥州街道の宿場の千住宿は、北千住にあった。

 千住宿は、日本橋から一番近い江戸四宿の中で一番人が多かった宿場だった。 ここでの江戸四宿は、日光・奥州街道千住宿以外には、東海道品川宿・中山道板橋宿・甲州街道内藤新宿を指す。

 現在も北千住は、交通結節点の役割を担う北千住駅がある。 北千住駅は、茨城や福島浜通り経由で宮城の仙台に至る常磐線など、様々な路線が乗り入れている。

 国道4号から一本逸れた道が、旧日光・奥州街道。その道に入っていく。

 現在は商店街になっている旧日光・奥州街道。「千住○○商店街」や「宿場町通り」といった門がいくつもあった。

 問屋場・本陣などの碑が所々にあったが、お世辞にも目立ってはいなかった。 特に本陣の碑は、完全に電柱の陰に隠れてしまっていた。 左手にあったのだが、思いのほか小さいこともあって見つけるのにかなり苦労した。

 宿場町通りの北側では、千住宿のオレンジ色の幟が道の両側にたくさん掲げられていた。 多くの旧宿場町と同様、それを生かした街づくりをしているようだ。

 「千住ほんちょう公園」という場所が右手にあった。 ここには、宿場時代に高札場があったところのようだ。 高札場(こうさつば)とは、江戸幕府の禁制や御触れを掲示する場所で、宿場のシンボル的存在である。

 この公園には地元の方々が数人いて、憩いの場になっているようだった。

 宿場見学していると、朝御飯が早かったせいでお腹がすいてしまった。まだ日本橋から10kmちょっとしか走ってないのに。 そこで、通りがかりにあった、「かどやの槍かけだんご」という団子屋に立ち寄った。

 千住は日光・奥州街道と、水戸に向かう水戸街道の分岐点だった。 そのため、水戸徳川家もこの千住に立ち寄ることが多かった。 そして、水戸光圀(水戸黄門)の大名行列が休憩の折、松に槍を掛けて休んだという「槍掛けの松」がかつて千住にあったという。

 その「槍掛けの松」から名前を取ったのが、この「槍かけだんご」である。

 一串3個の団子がついたみたらし団子を買い、その場で食べる。タレが塩っ辛くもなく甘くもなく、ちょうどよい味だった。

 美味しいものを食べ終え、再出発。荒川を渡り、日光・奥州街道を北上していく。次の宿場の草加まで7km、3つ先の宿場の春日部(粕壁)まで21km。 そして、今日の目的地まで97km。時間もあるので、トラブルがなければ夕方までには着くだろう。

 しばらく真っ直ぐの道が続く。この道は交通量が多く、自転車には走りにくかった。 昔ながらの道だと、道幅も広くなくどうしてもそうなってしまうのは仕方ないが。

 車に注意しつつ30分ほど走っていると、東京から埼玉に入った。


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