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04 程ヶ谷宿〜03 神奈川宿    横浜市保土ヶ谷区〜横浜市神奈川区

 程ヶ谷宿に到着。看板には程ヶ谷宿の松並木として紹介されているが、現在の御油宿や沼津宿・大磯宿の近くの松並木に比べれば、 ほとんど残されてないと言ってもよい状態だ。宿場町の遺構もその先の消防署のところに、区役所が設置した本陣跡の碑などがあるだけにとどまる。 旧家と思しき建物が数えるほど残っているが、それ以外は当時の面影を偲べるものは皆無だ。

 まあ開発が進んだこんな街中に跡の碑だけ設置されているだけでも良いと考えるべきなのかもしれない。

 そろそろ昼御飯の時間だ。横浜に来たら横浜中華街にどうしても行きたかったので、そこへ行って昼食をとることにした。 江戸時代には勿論なかったが、まあ固いことは言わない。

 程ヶ谷宿を出ると、国道1号は完全に幹線道路の姿となった。特に、首都高との交差点は完全に大都会の道となっていた。 ここで一度横浜港方面へ進むため、右に曲がる。

 現在の横浜市中心部は、江戸時代の終わり頃まではごく小さな村があるだけだった。 それ以前に現在の横浜市内で栄えていたのは、程ヶ谷宿の次の宿場町、神奈川宿のあたりなどの数か所のみだった。

 そんな横浜だったが、1858年の日米修好通商条約で開港地に神奈川が選ばれると、 江戸幕府は外国人居住地を遠ざける目的で近くの横浜を開港地に決定する(横浜は神奈川の一部とみなした)。 短期間で国際港としての設備が整えられ、開港後は日本の玄関口・国際色豊かな都市として発展し始めた。 こうして、現在の横浜の礎が築かれたのだ。横浜中華街は、当時の中国人商館に由来している。

 曲がって間もなく見えてくるのが、横浜港に面しているみなとみらい21。大都会横浜、道路は片側3車線、さすがである。 歩道も完備しており、ここでは安全な歩道を進んでいく。それにしてもこの栄え様、今回の東海道五十三次自転車旅で こんなに栄えているところを通ったのは初めてではないだろうか。振り返ってみても、名古屋は中心街を通らず、 京都は高層ビルがないので横浜とは全く違う雰囲気だ。そう考えると、京街道の旅でのスタート地点、 大阪梅田くらいしか勝負できそうな場所が出てこなかった。

 その先、横浜市役所や神奈川県庁の近くのオフィス街は人で溢れかえっていた。 平日の昼時だったので、外へ食事に出かけている人が多いのだろう。ここは自転車を押して歩道を歩く。 横浜中華街は看板によると、もう少し先に行った所に入り口があるらしい。とにかく進む。

 中華街の東門にたどり着いた。中に入っていく。肉まん・甘栗などを売っている露店がたくさん並んでいて、 お腹がすいている自分は余計に空腹を感じてしまうほどに良い香りが立ち込めている。 暑い中、通りは観光客でごった返しており、テレビ局のカメラなんかも取材か何かで来ている。 さすが、日本三大中華街の一つと形容されているだけのことはある(後の2つは神戸の南京町と長崎の新地中華街)。

 中華料理のフルコースなどは金銭的な問題で食べられる訳もないので、安いところを探す。 すると、通りがかった店の日替わりランチが安かったのでそこに入ることに。 自転車を大通りから外れた細い道の壁に立てかけておく。

 その時近くにいた中国人と思われる人が何故か自転車のハンドルのテープ(バーテープ)のことを聞いてきた。 尋ねられたから答えたものの、彼は一体何が知りたかったのだろうか?単に日本語の練習がしたかっただけなのかもしれないが。

 早速店内へ。いい感じの店である。今日の日替わりメニューは豚肉と胡瓜なんかを炒めたものらしい。 中華料理をそこまで詳しくないので、とりあえずそれを注文する。 日替わりランチで一番魅力に感じたのは、ご飯のおかわりが無料だということだ。 これは疲れた体にとってはうれしいサービス、ありがたい。

 炒め物は、豚肉が柔らかくておいしく、程よい辛さが食欲をそそり、ご飯のおかわりサービスも遠慮なく何度も受けた。 ただ、香辛料や唐辛子などを使った料理に慣れていないので途中からは水をたくさん飲む羽目に。 まあ横浜中華街での食事ができたので、自分としては満足。

 中華街を出発するときにかなり甘栗を買うように言ってきた中国人の人がいたが、丁重にお断りしておいた。 中国の人はやや強引さのある商売をしてくるので、慣れていない日本人はちょっと肌に合わない。これが文化の違いというものだろうか。 さあ、残すはあと30kmちょっと、3つの宿場町とゴールの東京日本橋を残すのみ。 お腹も一杯になったことだし、元気よく東海道の最後を駆け抜けるとしよう。

 そんな感じだったので、この時はこの後すぐ訪れる東海道五十三次自転車旅最大の危機は予測できるはずもなかった……

 来た道を戻っていく。お腹が一杯の中、やや交通量が行きより少なかったので車道を進んでいた時、事件が起こった。 前方の車が道路左側の建物に入ろうとして、突然ウインカーを出して左に曲がりだしたのだ。 慌ててブレーキをかけ減速するも、完全に止まるところまではいかず、車に激突してしまった。 スピードを失った自転車はそのまま立っていられるはずもないので、そのまま横へ倒れる。

 すぐに車の運転手が出てきてくださった。幸いなことに早めにブレーキをかけていたおかげで、 自分は右腕にほんの軽いかすり傷をしただけで済んだ。ただ、前方のタイヤが少し変形しており、 調整しないとそのままではブレーキにあたってしまい走ることができない状況になっていた。 これはもしかしたら、ゴールまであと30kmのところで旅を中止しなければならないかもしれない、そう思った。 つまりはそう思えるほど、元気だったのだ。

 万が一のことがあると困るので運転手さんが一応警察を呼んでくださった。近くの交番から、警察の方が来てくれた。 交通事故が起こった時の状況、自転車や車の状況などを細かく判断して、車側が後方確認を怠ったために起こった物損事故という扱いになった。 まあ自分が京都に住んでいるので、基準の交差点から東西南北どちらに行った場所にあるという京都独特な住所の言い方を 伝えるのにちょっと手間取ったかもしれない。

 自転車の前輪もなんとか調節し、走ることができる状態にはなった。 運転手さんに今回の東海道五十三次自転車旅であったことを色々と話す。 それから、後に何かあった時のために連絡を交換し合う。そうした後、改めてゴールに向けて出発する。 1時間ほど予定が遅れたが、旅が再開できるだけでも良しとしなければならない。 今回、運転手さんは本当に丁寧な対応をしてくださったのでありがたかった。

 横浜駅から先、旧東海道に近い道は第一京浜と呼ばれる、国道15号である。 ちなみに国道1号は第2京浜と呼ばれ、第一京浜の北を通ることになる。 もちろん今回は残り3つの宿場町を見学していきたいので、第一京浜に沿って進んでいくことに。

 そして、東海道本線(京浜東北線)横浜駅と東神奈川駅の間にあったのが先ほど述べた神奈川宿。 横浜港が開港するまで栄えていた神奈川湊にできた宿場町であった。

 ※ 右の写真は事故現場ではないのであしからず。


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