03 神奈川宿へ戻る  東海道表紙  01 品川宿・日本橋へ進む


02 川崎宿〜01 品川宿   神奈川県川崎市川崎区〜東京都品川区

 京急本線・JR南武線の八丁畷駅のところに旧東海道の立派な石碑があり、その隣に「東海道川崎宿史跡めぐり」という 最近できたばかりらしい新しい看板があった。

 そこにあった地図によると、旧東海道は完全に現在の川崎市中心街を通っていたようだ。 いや、逆に旧東海道粗沿いに現在の川崎市街地ができたというべきか。どちらにしても人混みの中を通って行かねばならないが、 宿場もあと2つだしまだ日没までは時間があるので、まあ良しとしよう。

 当然、この辺りの旧東海道はマンションや商店が立ち並んでいたが、川崎駅に近づくにつれて飲食店などが目立つようになり、 だんだんと繁華街の様子になっていった。言うまでもないが、人通りは多い。信号もたくさんあり、 しょっちゅう信号待ちをしなければいけないが、街中の散走(ポタリング)のつもりならあまり気にならない。

 そうして川崎駅に続く通りとの交差点に。そこから先の旧東海道は、「いさご通り」という商店街になっていた。 この辺りが、川崎宿のあった場所だ。驚いたのは、ちゃんと「旧東海道」だと、いさご通りの看板には書かれていた。 この商店街は旧東海道だという点をアピールした街づくりをしているのかもしれない。

 川崎宿は、東海道の53の宿場町の中で最も遅くにできた宿場町である。使者や物資を馬で運ぶ「伝馬」という 江戸時代の交通制度の農民への負担が大きく、宿場町ができた当初は相当な財政難に陥った。 ただ、後述する六郷の渡しの権限を川崎宿が手に入れてからは、幾分財政状況はよくなったようである。

 六郷の渡しの渡河点という役割以外にも、川崎宿は厄除け大師で知られる真言宗の寺院の川崎大師への玄関口という役割も担い、 宿場は繁栄した。

 現在は江戸時代当時の宿場町の跡はまったくない。しかし注意深く観察すると、きちんと旧東海道だったことを表すものが現代の街の中に色々と溶け込んでいる。

 例えば、本陣跡の場所を示す看板や旧東海道と書かれた歩道沿いの石碑などがきちんとあるのだ。 亀山の関宿のように宿場町の姿をそのまま残しているのも良いが、形を変えても川崎宿のように商店街として活気づいているのも これはこれで良い在り方の一つなのか、と思った。

 そんな人混みの中をゆっくりと進んで川崎の街を抜けると、多摩川の右岸へ出た。 江戸時代中頃からは「六郷の渡し」と呼ばれ、東海道を行き来する者は多摩川を船で渡っていた。

 この六郷の渡しは、先ほど述べた通り江戸の半ばから川崎宿の権限となって、 そのおかげで財政難だった川崎宿が見事再建することができた。 今日は多摩川にかかっている、国道15号の六郷橋を渡る。

 その六郷橋の上に、神奈川県川崎市と東京都大田区の境界を示す境界が。大阪・京都からの長い道のりの末、いよいよ東京に入ることに。 ここまでようやく来たのだと思うと、本当に感慨深い。

 橋を渡り切ったところにある国道15号の案内標識には、最後の宿場町である品川まであと10kmとある。 そして、初めて日本橋の文字が。あと18km。本当にあとわずかだ。ただ、ここからが今までで一番交通量が多い地域だ。 先ほどは奇跡的に軽い事故で済んだが、ここからは本当に一瞬の気の緩みが言葉通り、命取りになる。 細心の注意を払いつつ、東海道五十三次自転車旅のクライマックスを楽しみたい。


03 神奈川宿へ戻る  東海道表紙  01 品川宿・日本橋へ進む