37 栗原宿へ戻る  甲州街道表紙  35 鶴瀬宿へ進む


36 勝沼宿〜35 鶴瀬宿  山梨県甲州市(旧勝沼町〜旧大和村)

 勝沼の入り口には、道路看板と同じ形式で「甲州街道勝沼宿」とあった。 このタイプの案内は今までには見たことがなかったように思う。

 今も昔もブドウで有名な勝沼。その始まりは奈良時代とも平安時代とも言われる。 日本の在来種のブドウとしては、この「甲州」というブドウが唯一のものらしい。 この甲州葡萄は、江戸時代には幕府に献上品としての役割があった。もちろんこの甲州街道を通ってである。 また、山梨県でワインが作られるようになったのは明治時代からであり、初期は甲州葡萄で醸造されたようである。

 現在ではブドウの品種といえばアメリカ由来のデラウェアや改良種の巨峰のほうが有名。 私もブドウといえばこれらの品種を真っ先に挙げる。 ただ、特に地元では甲州葡萄は根強い人気を保っているそうだ。

 そんなブドウの名産地にあった勝沼宿。江戸時代中期の儒学者、荻生徂徠(おぎゅうそらい)は書物で「(江戸から)甲斐国に入ってから一番賑わっている宿場」と述べているそうだ (歴史上の人物を覚えるのが苦手な自分ですが、高校の倫理で出てきたこの人は、「変わった名前の人だなー」ということで奇跡的に頭に残っておりました)。

 笹子の峠が近づいてきたので、緩やかな上り坂が続く。昨日一日休んだおかげで、無理をしなければ足を痛めるようなことはなさそうだ。 だが傾斜が徐々に増してくる。いくつもあるぶどう狩りの看板を横目に、マイペースで進んでいく。

 勝沼宿の本陣跡に到着。「本陣槍掛けの松」というものがあった。 本陣に公家や大名といったお偉いさんが泊まっている時に、目印としてこの松に槍を立て掛けたのだそうだ。

 旧甲州街道は、国道20号と合流する。取りあえず目指すは、次の鶴瀬宿がある「大和」と書かれた場所。 同じ方向には「大月」と、今日の目標の「八王子」の文字もある。まだ朝の8時半なので、きっと何とかなるだろう。

 国道20号に入るとすぐに、新選組局長の近藤勇の白い石像があった。戊辰戦争の「甲州勝沼の戦い(柏尾の戦い)」があったことを示している。 戊辰戦争と聞くと、自分より若い会津若松の白虎隊の方の悲劇を思い出す。 こうして気楽に「(比喩ではない)旅をすみかとす」ることができる平和な世に生まれたことを、本当にありがたいと思う。

 正直あまり強そうに見えない(失礼!)その近藤勇の像に別れを告げて、歩道を進む。 だが歩道は段差があってあまり走りやすくなく、だからと言って車道は狭くてトラックの邪魔になってしまう。 しかし、スピードを出すのは後々の体力を考えると心配。ここは時間より体力を優先させて、上っていく。

 右手に見えるは現代の大動脈、中央自動車道。その間には、小さな川が流れている。 3月の下旬で春は近づいているといえども、川の周辺の木々を見る限りは春はまだまだ遠そうだ。

 笹子峠直前の2つの宿場はもうすぐ。次の鶴瀬宿、その次の駒飼宿は2つで1つの宿場だった。 鶴瀬宿は1か月30日間のうち20日間の宿場を担当し、残りの10日間を駒飼宿が担当していた。 ここから先の宿場は、このような「合宿」が多くなる。


37 栗原宿へ戻る  甲州街道表紙  35 鶴瀬宿へ進む