53 加納宿へ戻る  中山道表紙  51 太田宿へ進む


52 鵜沼宿〜51 太田宿   岐阜県各務原市〜岐阜県美濃加茂市

 旧道に入ってしまえば車はほとんど通っていなかった。 自動車道としての国道21号と地元住民用の旧中山道。うまく役割が分かれている。

 その証拠に、旧中山道は車がスピード出せないつくりになっている。 確か中学校の社会科の授業でやった、いわゆる「コミュニティ道路」というやつだ。 自転車にとっても走りやすい道路だ。

 その旧道を案内板に従って走っていると、脇本陣が復元されていた。 木が鮮やかな黄色で、まだ出来たばかりのようだ。確かに事前に調べた時、この復元脇本陣はなかったと思う。

 入口には中山道の宿場の数69個+三条大橋・日本橋の数2個を合わせた、71個の瓢箪(ひょうたん)がずらっと並んでいた。 一つ一つに宿場の名称が筆で書かれていた。

 そこでボランティアのおじいさんの中山道のマンツーマンの講義を受ける。 今まで通ってきた17の宿場・これから行く51の宿場のことを考える。 若者がこんなところに来るのは珍しいので、どうしてこんなところに来たのかと質問された。 いつものように、中山道を自転車で三条大橋から日本橋まで向かっていることを話す。

 「大学生は時間があっていいねぇ。そういえば1年ほど前に、2人で弥次喜多の格好して中山道を通しで歩いている大学生がいたなあ」

 まあ変わったことをする人もいたものだ。という自分も、普通の大学生はしないことをしている訳だが。 楽しそうだと思ったのが、自分も同じタイプの人間だということを何よりも示している。

 随分話し込んだので、記念に沢山の瓢箪と一緒にボランティアのおじいさんを許可をもらって撮影する。

 その後脇本陣をしばらく見学していく。 丁度良い頃合に、観光バスでツアーか何かの団体がやってきたので、それを合図に出発することに。 先ほどのボランティアさんに一言声をかけ、再び自転車に乗る。

 新加納からずっと旧道を通ってきたので、もうしばらく旧道を行くことにした。 この判断を後ほど後悔することに……

 旧道はここから「うとう峠」を通る。「うとう」に当てはまる漢字を探したが、残念ながら発見できなかった。

 鳥類に「ウトウ(善知鳥)」という鳥がいる。長野県塩尻市の国道153号には同様の読みで「善知鳥峠」がある。 しかし平仮名いうことは始めから一切漢字を当てなかったか、 あるいは当時は複数の漢字の当て方があったかのどちらかだろう。多分。

 住宅街のそこそこキツイ坂を上っていくと、やがて公園を通ることになる。旧中山道は遊歩道になっていた。

 始めは押して歩いていたが、途中から石畳になってしまった。 自転車を押して歩けるところはそうするが、それができない所は自転車を担ぐしかない。 峠付近には、一里塚跡があった。ちょうど100番目の一里塚だそうだ。 

 下り坂に入ってしばらくすると、その石畳も無くなってしまった。完全に山道だ。 一度サークルで京都嵐山の保津峡に行った時に、今回と同じように道を間違えて、登山道を自転車を担いで歩くことになったことがあった。 あの時と同様、石や枝でタイヤがパンクしないよう細心の注意をしないように注意しつつ、同時に祈る。

 登山道を苦労して進んでいくと、国道が見えてきた。だが国道との間には、JR高山本線の線路がある。 さてさてどうしたものか。

 最悪の場合、列車が来ないことを祈りつつ柵を越えて線路を横断しようかと考えた。 だが幸いなことに、線路を潜るように水路用のトンネルに幅1mもない通路を見つけたので、 そこを通って無事に突破することが出来た。

 トンネルを渡ったところに「旧中山道」の小さい案内板が。なんとこの通路も旧中山道の一つらしい。 徒歩旅の人はここを通るというのか。まあ別に歩きの人なら確かに何も問題ないだろう。

 だが自転車には非常にキツイ道。自転車で街道を巡る人は、うとう峠は避けて国道21号を通りましょう。

 まあとにかく無事に自転車が走れる道に出られた。旧道を忠実にめぐるのもほどほどにしないといけないな。 大幅に時間を食ってしまったので、先を急ぐ。

 いつのまにか坂祝町(さかほぎちょう)に入っていたようだ。 隣の木曽川の堤防は「日本ラインロマンチック街道」という散策路になっている。

 だが私は、坂祝と聞くと中山道のイメージを持つ。 ちなみに今は坂祝と言えば中山道以外にも、木曽川のチャート・放散虫革命という自分の大学の専門の地球科学関連のことも思い浮かべる。

 話が逸れるが、ついでなので簡単に説明を。
 木曽川の峡谷をつくっているものの中には、チャートと呼ばれる岩石がある。 そのチャートには、放散虫という数十分の1mmほどの目に見えないサイズの化石が含まれていることがある。 放散虫の形は時代ごとに微妙に違うので、放散虫を調べることで地層の年代が分かる。 1970年〜80年代に、この坂祝周辺は放散虫化石の研究の中心舞台になった。 放散虫研究の結果、日本の地質の解釈は大きく変わった。 この出来事は「放散虫革命」と呼ばれている。

 閑話休題。数km急ぎ目で走ると、坂祝町を抜けて美濃加茂市に入る。 うとう峠のせいで既に正午近いが、本日3つ目の宿場、太田宿にやって来た。


53 加納宿へ戻る  中山道表紙  51 太田宿へ進む