48 細久手宿〜47 大湫宿 岐阜県瑞浪市
御嶽の宿場から時間がかかり過ぎたが、何とか細久手の集落に無事到着した。 細久手宿とこの次の大湫宿の「くて」とは、尾張や美濃といった地域で「湿地・沼地」を指す方言らしい。 戦国時代の合戦や2005年の愛・地球博で知られる「長久手(愛知県長久手市)」もおそらく同じだろう。 現在の細久手の集落は一本の道の両側に家々が並ぶ集落。古い建物はあまりないが、街並みとしての雰囲気は良い。 そんな数少ない古い建物の一つが、旅館「大黒屋」。150年前の建物を今でも使っている。 建設当時は尾張藩の本陣(大名などの身分の高い人が泊まる宿場の中心的施設)だった。 街道歩きの人にとっては、太田宿〜大井宿間(美濃加茂市〜恵那市間)の45kmの間にある宿泊施設がここだけなので重宝していることだろう。 なお、ここの施設は見学できるが、そのためには事前に予約が必要になる。 本当は昨日予約をするつもりだったのだが、前日の紀行文の通りそんな余裕はなかったので予約を忘れていた。 そのため今回は外観と、外に置いてあるスタンプだけで我慢する。 その先の公民館か何かでは、ここの集落の人が集まって何かやっていた。何かの会合だろうか? 細久手宿を出発する。集落の最後には、細久手宿の入り口の木製看板と同じつくりの看板があった。 「旧中山道 ↑大湫宿 6.9km」だそうだ。 先ほどあれだけ頑張って上ってきたからだろうか、道としてはアップダウンはあまりない。 森の中の快走路を走っていくと、左手に一里塚が見えてきた。 一本道だから道は間違えようがないが、ちゃんと旧中山道を走っている証拠だ。 ここの一里塚『奥の田一里塚』は江戸から92里の位置にあった。 本来一里塚は道の両側にあるものらしいのだが、この一里塚は2つセットで残っていた。 説明版によると、ほぼ完全に当時の姿(高さ4m・直径12m)をとどめているという。 説明版の解説を読んでから、先に進む。山の中の道なので車はあまり通らない。坂も微妙に下っているようで、調子が良い。 だが時々通る車、そして一度通った宅配便のトラックが、この道が重要な生活道路だということを伝えている。 快調に飛ばしていると、池が左手にあらわれた。「弁財天の池」という名前だそうだ。 初夏にはカキツバタがきれいに咲くのだという。 しかし何もかも順調にはいかない。その先の道路が二手に分かれていたのだ。 頼りになるはずの看板も、Yの字の分かれ目に立っている。 迷った末左に行くことにした。 だが正しい道を進んでいるのかが分からないので、途中ビニールハウスの畑で作業をしていらっしゃる人に尋ねた。 すると、やっぱり先ほどの道は右に進むのが正しかったようだ。 ご厚意でその人の私有地を通らせてもらい、正しい道に戻らせてもらった。 再びペースを上げていく。広葉樹の葉はないが、針葉樹の葉の緑が綺麗だ。 この先には「琵琶峠」という峠が待っている。標高は585m。ただしその道は石畳で、車両は通行できない。 そこで琵琶峠の西側の入り口で写真を撮って、勝手に琵琶峠に行ったことにした。 自転車乗りは新しい舗装路を通っていった。 舗装路を進んだ先に東側の入り口があり、旧中山道と再会。 大湫宿は目の前だ。 |
49 御嶽宿へ戻る 中山道表紙 47 大湫宿へ進む