47 大湫宿〜46 大井宿 岐阜県瑞浪市〜岐阜県恵那市
先ほどの細久手の宿場でも述べたが、大湫(おおくて)の「くて」は低湿地を表す尾張・美濃方言。 ぬかるみを防ぐために、先ほどの自転車通行不可の琵琶峠付近は石畳が敷いてあると言われている。 宿場の真ん中あたりにある神社「神明神社」には、樹齢1300年と言われるでっかい杉の木がある。 見ごたえがあるが、3月中旬でスギ花粉持ちの人間にとっては心から楽しめないのが残念だ。 そういえば、昼御飯から何も口にしていない。その昼御飯もたった一人前だった。いくらなんでもカロリー不足。 大湫の集落では個人経営の食料品店があったので、そこに立ち寄り、自分の好きな菓子パンを買う。 そのパンを店の前で美味しくいただく。山頂で食べるおにぎりと同様、疲れた時に食べるパンは特別おいしく感じる。 ここから大井宿方面に行くには、本当の中山道を通って行くともう1つ……ではなく、たくさん峠を越えることになる。 その名も「十三峠」。これは一つの峠の名前ではなく、13か所ほど峠があることからついた区間の名前だ。 徒歩だと5時間以上かかり、美濃の中山道では当然難所だと言える。街道徒歩旅の人は、さぞかし大変だろう。 だがその道も、うとう峠や琵琶峠と同じ草道や石畳道。 事前に情報を得ていたが、先ほどパンを買った時に確認のためにご主人に聞いたら、やはり自転車では無理だと言う。 自転車でもマウンテンバイクなら何とかなる可能性があるが、ロードバイクではどうしようもないだろう。 そこで地図を見て考えると、ここ大湫からは一気に南へ下って国道19号に出ることが最善だと判断。 そうすればJR中央本線の釜戸駅付近に出られる。 中山道から離れ、すごい傾斜の下り坂を下る。上りは体力を消耗するが、下りは精神力を消耗する。 少しでも気を抜いたが最後、命を落としかねない。 300m近くの標高差を10分ちょっとで下ってきた。自転車ならではの速さだ。もし徒歩だったら1時間以上かかる道のりだろう。 次の大井宿(恵那市)まで11km。 国道はやっぱり車通りが多い。特に大型トラックが。片側一車線の道をスピードを上げて通って行く。 隣の中央自動車道を通ればいいものを……と思うのだが。 自転車は車道を走るべきなのはよーく知っている。だがそんなことは言っていられない。 歩道がある所はそちらに避難したり、車道に戻ったりを繰り返す。 同時に、先ほど300mも下りてきたツケも払いつつ進む。つまり、道が上り坂なのだ。 車に迷惑にならないようなスピードで走りたいのだが、そんな体力も気力もない。 無いながらも、頑張って進むしかない。 そうこうしていること数十分、念願の恵那の街が見えてきた。 国道は当然市街地を避けてつくってあるので、道路標識に従って国道から離れて恵那市の中心部を目指す。 恵那インターの手前数百mのところに、中山道の碑が左手に建っていた。 どうやらいつの間にか旧中山道に戻って来られたらしい (実際国道から分かれてすぐの交差点で、十三峠を経由してきた旧中山道と合流している)。 大湫宿を出てちょうど1時間。ようやく大井宿に到着した。 ▼大湫宿 補足を読む
<補足>
今回話題として外しましたが、大湫宿は皇女和宮でも有名です。 なぜこの話をしなかったかと言うと、自分がこの人のことを詳しく知らなかったからです。 かすかに、「マンガ『JIN-仁-』で確か登場したなぁ……」という印象しか持っておりませんでした。 疑問なのですが、このサイトを見ている人の中でいったいどれくらいの人が、彼女のことを知っているのでしょう? 街道ファンや時代劇・歴史ファンならともかく、フツーの人(特に自分と同世代の人)は「誰それ?」と思うのではないでしょうか?
だけど和宮さんなしには、中山道を語ることができないでしょう。これから色々な場所で何度も出てくることになりますので。 と言うわけで、和宮さんが誰なのかを超簡単に紹介します(自分が後で見返すためと言う意味もあるのは内緒)。 和宮親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう:1846-1877)は、今から5代前の第120代天皇「仁孝天皇」の8番目の娘さんです。 彼女が満5歳の時に、とある公家との間で婚約が整いました。 しかし1858年に幕府が朝廷に許可を得ず日米修好通商条約を結び、 さらに大老・井伊直弼は安政の大獄を断行し、尊王攘夷を唱える武士や公家を幕府は弾圧します。 そんな状況下で、幕府は朝廷と関係をより結び付けて幕藩体制を強固なものにしようとする「公武合体策」の一環として、 14代将軍の徳川家茂の正室として天皇の娘の降嫁(こうか:皇女や王女が皇族・王族以外の男性に嫁ぐこと)が計画されました。 色々あって、その天皇の娘さんとして和宮さんが選ばれてしまいます。 既に結婚相手が決まっていたというのに、反故にされたのです。 ちなみに家茂のほうも婚約者がいましたが、同様に婚約は破棄されました。
1861年、御輿入れの長い行列が京から中山道経由で江戸に向かって下って行きました。 大湫宿でも、山の中の宿場だというのに5000人近い人が4日に分けて泊まったそうです。 習慣も言葉も全く違う江戸城での生活。幸い彼女は家茂に寵愛されたのですが、そんな結婚生活も4年で終わってしまいました。 家茂が21歳の若さで亡くなったのです。その5か月後には、彼女の兄の孝明天皇も崩御されます。 この時点で、和宮さんが降嫁した理由はなくなったと言ってよいでしょう。 歴史の激変期を生きた和宮さんは、明治維新後は京都に一度帰りましたが、再び東京に戻っています。 しかし病にかかり、神奈川の箱根で療養中に32歳で亡くなりました。 こんな和宮さんは、悲劇の皇女ということでご年配の方を中心に人気があるようです。 ただ自分は、まだ20代だからかもしれませんが、残念ながらあまり興味が沸きません。 |
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