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36 宮ノ越宿〜35 藪原宿   長野県木曽町(旧日義村)〜長野県木祖村

 旧中山道の案内板に従って、中央本線と並んで進めばその宮ノ越の集落に到着する。

 まず、「明治天皇御膳水」という井戸水が目についた。 明治時代になっても鉄道が通る前は、中山道は立派な陸路として大きな役割を果たしていた。 そして明治7年(1879年)、明治天皇が東京から甲州・東山道(中山道)周辺を巡幸された時はこの道を通られた。 その際、江戸末期に掘られたこの井戸の水をお飲みになったそうだ。 この近くでは一番の名水だったという。この水は今でも途絶えることなく湧いている。

 このように中山道や甲州街道にはこの明治天皇に関わる碑が多い。 実際今までにも何度か出てきた。そしてこの先も幾度となく見かけるだろう。 昔の人が、天皇陛下をどのような存在だと考えていたのかがよく分かる。

 宮ノ越宿の本陣の跡は、落ち着いた雰囲気の小さな庭園があった。 小さいながらも盆栽・石庭・池などがあり、本格的な日本庭園のようだ。 きちんと整備されていた。おそらく地元の方々のおかげなのではないだろうか。

 それからここ宮ノ越宿には、木曽義仲の資料館もあった。だが私は歴史上の人物に疎い。「誰?」と思いつつ、スルーしてしまった。

 という訳で、2割は超簡単な人物の紹介、残りの8割は後で自分で見返す用の人物まとめを(これでもう3回目なのか?)。
 木曽義仲(源義仲:1154-1184)は、源頼朝・義経のいとこにあたる人物。2歳の時にこの地にやって来た。 治承4年(1180年)に後白河法皇より平家追討の命を受け、木曽の地で旗挙げをした。 その後源平合戦「倶利伽羅峠の戦い」で平家軍を破って上洛。 しかしすぐに後白河法皇と不仲になり、その後源義経の鎌倉軍にも敗れる。 そして31歳の時に、宇治川での戦の後の「粟津の戦い」で亡くなった。

 再び戻る木曽高速。この旅初めてのトンネル、「山吹トンネル」を通る。標高は既に900m近い。

 なお、トンネルの前の交差点を右に曲がれば伊那谷へ出られる。 中山道の宮ノ越宿と伊那街道(三州街道)の伊那部宿(長野県伊那市)を結ぶ「権兵衛街道」だ。 昔は伊那谷の米を木曽谷に運ぶ重要な街道だった。 21世紀になって権兵衛トンネルが開通し、伊那谷と木曽谷が車なら30分で結ばれるようになった。

 トンネルを出た先は、さらに白い部分の面積が増えてきた。気温は多分2℃とか3℃とかだろう。 後ろを振り返ると、見るだけでさらに寒くなりそうな、そこそこの量の雪があった。雨も半分みぞれに変わってきた。

 木曽谷の上りはもう少し、「鳥居峠」まで続く。だがその前に、もう1つだけ宿場がある。 その宿場、藪原宿に行くために藪原の交差点で国道をそれる。


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