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27 長久保宿〜26 芦田宿  長野県長和町(旧:長門町)〜長野県立科町

 江戸時代当時、長久保宿は信濃国の26の宿場の中で、下諏訪宿に次ぐ規模を誇っていた宿場であった。 和田峠を挟んで、下諏訪宿と連続して宿泊する旅人が多かったことが一因であったようだ。

 道が途中で曲がっていることから、長久保宿はL字型に広がる宿場だった。 そのL字の角を曲がると、上り坂となる。少しだけ上った先に、長久保宿の本陣がある。

 本陣の隣には、高札場が復元されていた。 江戸時代当時のものが再現されて掲げられていたが、よく見ると、ひっそりと長和町教育委員会の解説が左下に混ざっていた。

 和田宿とは違い、長久保宿の本陣には現在でも人が住んでいる。 そのため、良くも悪くも内部の見学はできない。

 代わりに、本陣から50mも進まない場所にある長久保宿歴史資料館を訪れることに。 一福処濱屋と掲げられた、明治初期に建てられたその建物は、休憩所も兼ねている。

 早速中に入ると、案内の方がお茶を出して下さった。その温かいお茶を、ありがたく頂く。

 出梁造り(だしばりづくり)と呼ばれる、1階より2階を突出させたその建物(もらった資料をカンニング)。 確かに2階の展示は充実していた。籠や傘、貨幣などの展示もあって、入館料がかからないのにすごく充実した展示だった。

 見学中の街道徒歩旅の方々と少し話をしてから、再出発。やはり江戸から京都へ歩く方々ばかりだった。

 この先には、この日2つ目の峠がある。 標高900mちょっとの、笠取峠だ。 長久保宿からは一里も満たない距離にあるが、その間に800尺ほど上る必要がある。

 当初は、長久保宿を出てもなるべく旧道を進もうと思ったのだが、旧道の斜度がキツすぎて漕ぐことができない。 舗装状態も悪いこともあるので、大人しく旧道は諦め、新道の国道142号に切り替える。

 実は後で気付いたのだが、自分が旧道だと思って進んでいた道は間違った道だった。 結果的に、新道に切り替えて正解だったと言える。

 しかし新道と言えども、和田峠を越えた脚でもう一度峠を越えるのはかなりキツい。 出発前に嵐山・保津峡方面に行って、多少は峠に慣れたつもりだったのだが…

 途中の道路の壁面に、笠取峠の絵のタイルがあった。 当時は現在より高い場所にあり、浅間山も見られたようである。

 そこで、京都方面に“上る”中山道徒歩旅の二人組と遭遇した。 一方の人は、一眼レフのカメラを持っていた。 少し話をすると、やはり、自転車の旅人は珍しいようだ。 お互いの旅の無事を祈願する。

 なんとか峠に到着した。長和町から立科町に入る。 ここからはまた下りである。しかも、その先にはお楽しみが待っている。

 そのお楽しみ、笠取峠の松並木に入る。 石畳で自転車は少し走行しにくいが、下り坂ということもあり、旅情を味わいつつ、気分よく走れる。

 すると、前方に二人組の背中が見えてきた。 リュックを背負っており、登山用のステッキを持っていた。 間違いなく、江戸方面へ“下る”中山道徒歩旅の方々だろう。

 一度追い抜かして、広い場所で待って話しかける。 やはり、江戸方面へ向かうという、珍しい中山道歩き旅のご夫婦だった。

 お二人の在住は岐阜県垂井町。 まず垂井宿から三条大橋まで中山道を歩ききった後に、今度は残りの中山道を、垂井宿から日本橋に向かって歩いているそうだ。

 しばらく話し込む。次第に、江戸方面へ向かう街道旅人の悩みの話となった。

 「江戸へ向かう人用のガイドブックが欲しいよねぇ…」

 そう。市販の東海道や中山道関連の書籍は、必ず東京日本橋を出発、京都三条大橋を目的地として書かれているのだ。 つまり、日本橋をゴールにする人は、これらの書籍を遡って読んでいかねばならないのだ。 例えば、まずAがあり、次にBがあり、その次にCがある…という書き方だと、頭の中で「C→B→A」と変換する必要がある。 そのため、下調べが結構大変なのだ。東下りをする人は、私と全く同じことを思っているようだ。

 数少ない“下り”の中山道旅人仲間に別れを告げ、再び石畳を下っていく。 一度新道と旧道が交差するが、ここではずっと旧道の松並木を進むことにした。

 松並木が終わると、芦田宿入口という交差点が。右に曲がれば、間もなく芦田宿である。


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