27 長久保宿へ戻る  中山道表紙  25 望月宿へ進む


26 芦田宿〜25 望月宿  長野県立科町〜長野県佐久市(旧:望月町)

 芦田宿は、現在の立科町の中心部にあった宿場である。立科は八ヶ岳連峰の標高2530mの火山「蓼科山」から来ている。

 立科町HPによると、町制施行前の立科村発足時に、「蓼」の字が当用漢字になかったこと、また以前は「蓼科山」が「立科山」と呼ばれていたことから、「蓼」ではなく「立」の字を当てたという。

 芦田中央交差点の近くに、芦田宿の本陣が。昭和63年という自分が生まれる前に設置された看板に目をやる。

 この本陣土屋家は、江戸時代後期の寛政12年(1800年)に改築されたもので、長野県の県宝に指定されているらしい。 当時の土屋家は、この客殿以外にも酒造蔵や長屋などの建物によって構成されていた、とあった。

 本陣の隣には、「ふるさと交流館 芦田宿」という施設がある。ここでしばし休憩していくことに。

 中に入ると、案内のオバサンが迎えてくれた。他には、街道歩きの人と思しきオジサンが2人いた。

 汗をかいていたことに気付いたのか、オバサンが色々と尋ねてきたので、いろいろと会話をする。 すると、オバサンが柿と梨を出してくださったので、ありがたく頂戴することにした。

 柿と梨で喉を潤しながら、そこにいた方々と中山道トークに花を咲かせる。 やはり街道歩きの方々は、どちらも江戸から京へ向かう方々だった。 11月の連休ということもあり、歩いている人は多いのだろう。

 また、この交流館はオープンスペースがとっても広かった。そして、中山道関連の史料も相当あった。 いくらか入館料を払ってもよいほどだと思った。

 交流館には20分ちょっと滞在した。十分休んだところで、次の宿場の望月宿を目指して再出発。 しばらくは緩やかな下り坂が続く。

 芦田宿と望月宿の間には、茂田井(もたい)という間の宿(あいのしゅく)があった。 間の宿とは、宿場の間に設置されることがあった旅人の休憩用の町場である。

 2kmほどの道程を10分ほどかけてゆっくりと自転車で進めると、茂田井の集落に入る。 この辺りが立科町と佐久市の境界にあたる。

 すぐに右手に、茂田井の一里塚跡が見えてきた。江戸から46里を示す一里塚である。

 茂田井は道幅が狭く、江戸時代の風情が薫る景観が残されている。 白壁の土蔵や用水路。そして今に続く酒造。国の登録有形文化財に登録されているのも頷ける。

 交通量もほぼなく、街道サイクリングするにはまさしく最高の場所であった。 街道歩きの人にとっても、ここは素晴らしい場所であろう。

 途中で茂田井のパンフレットがあったので、それを参照しながら進んでいく。 ついでに、先ほど貰い忘れた芦田宿のパンフレットも頂いておいた。 時刻は間もなく午後3時である。


27 長久保宿へ戻る  中山道表紙  25 望月宿へ進む