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25 望月宿〜24 八幡宿  長野県佐久市(旧:望月町〜浅科村)

 茂田井の間の宿から10分も進まないうちに、望月宿の西の入口付近までやって来ることができた。

 望月宿の本陣跡地は、歴史民俗資料館になっている。 立ち寄るかどうかを、時間と自らの体力としばし相談する。

 せっかくの機会なので見学していきたいが 真っ暗の中を迷いながら走る羽目になるという、中山道初日の悪夢が甦る。 既に、あと2時間もしないうちに真っ暗になる時間帯である。今日中にあと3宿場を訪れる予定なのだが…

 結局、良くも悪くも己の“街道好奇心”には勝てず、見学していくことにした。大学生料金を支払い、資料館の中に入る。

 ここの展示はなかなか充実していた。 一般的な五街道の地図など以外にも、古文書をはじめ、寛永通宝や機織り機などの古い物が色々と展示されていた。 古地図の展示もあり、その古地図では浅間山は「淺間嶽」と、また2つ前の宿場の長久保は「長窪」と記載されていた。

 その中で、特に私の興味を引いたのが、長野県内の立体地形図に、奈良時代の古東山道と江戸時代より前の東山道の推定ルートが描かれていた展示であった。

 これまで通ってきたとおり、中山道は岐阜の中津川からは木曽谷経由の道だが、もっと昔の東山道は中津川から中央アルプスを越えて伊那谷に出るルートであった。 このことは知っていたが、展示によると、同じ東山道でも時代によって細かいルートがかなり変わっているようだ。

 例えば、古東山道はここ望月も通ったが、時代が経ると松本・上田経由の道となったため、望月は通らなくなったらしい(中山道追分宿=信濃追分で古東山道ルートに合流)。 そして江戸時代になり中山道が整備されると、東西の大動脈は再び望月を通ることとなった。

 30分ほど館内の展示を楽しんだ後、最後に館内に置いてあった、「望月の駒」という、この地に伝わる姫と馬(=駒)の民話の説明の紙を読む。 せっかくなので、その紙を一枚持ち帰ることにして、資料館を後にした。

 なお、これまで私は「望月の駒」という話を聞いたことがなかった。 柏原宿の「寝物語」は耳にしたことがあったので、自分は民話についてそれなりに知識があるのかと勝手に思っていたが、 やはり、「寝物語」を知っていたのはたまたまだったのだろう。思い上がりを反省する。
 ※ 民話が気になる方は各自ググってください。

 本陣跡地の道を挟んだ向かい側にある、脇本陣鷹野屋を外から少し眺めてから、望月宿を後にする。

 ここから次の八幡宿へ進むには、本来は瓜生(うりゅう)坂という山道を進むことになる。 しかし現代はトンネルがあるので、ありがたく使わせてもらうことにした。

 トンネルを抜けると、浅間山とご対面。 しばらくの間、徐々に紅が濃くなっていく浅間山を楽しみながらのサイクリングである。 なお浅間山の噴火は、何度か日本の歴史に大きな影響を与えてきた。 天明の大飢饉(1783年)の引き金になったのも、浅間山の噴火だと言われている。

 望月トンネルのおかげで、10分ほどで八幡宿に到着できた。


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