そうは言っても、宿場間距離が短いので、あっという間に倉賀野宿に到着した。 倉賀野宿の脇本陣跡の少し手前、進行方向左手に、幕府からの御触れを掲載するための高札場が復元されている。
鉄道に詳しい人だと、倉賀野はJR高崎線と八高線の乗換場所であることを想起するだろう。江戸時代当時の倉賀野も、隣の高崎と同様、交通の要所であった。
倉賀野は中山道の宿場としてだけでなく、江戸と信州・越後を結ぶ水運の舟場として栄えた。また、倉賀野は中山道と日光例幣使街道の分岐点(追分)でもあった。
日光例幣使街道は、中山道下諏訪・京都方面から日光東照宮に行くのに使われた道で、 ここ倉賀野から、現在の群馬県太田市、栃木県栃木市を経由し、日光西街道の楡木(にれぎ)に至る街道である。 なお、そこから日光へ行くには、日光街道今市宿まで至る、日光西街道をそのまま進むこととなる。
その分岐点である追分は、高札場から700mほど江戸寄りに進んだところにある。 ここには、常夜灯と道標が残っている。左手に進めば、日光方面だ。
追分を真っ直ぐ進んで、次の宿場に向かう。宿場を出てから1kmほどで、烏川を渡る。昔はもう少し下流を船で渡ったようである。
旧中山道の近くには、サイクリングロードがある。手持ちの中山道の書籍にも、ここを通るよう指示がある。 この時、「これは中山道自転車旅をする自分のための道だ」と勝手に思い、ハイテンションでサイクリングロードを進んでいく。
ところが、この道は途中から工事中で通行止めだった。どうもタイミングが悪い。調子に乗った報いとでも言いたいのだろうか。 仕方ないので、来た道を戻ることに。