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08 熊谷宿〜07 鴻巣宿  埼玉県熊谷市〜鴻巣市


 朝の雰囲気に身を任せること10分弱、熊谷の宿場に到着した。

 埼玉県北部最大の都市、最高気温40度超えの「暑い街」として有名な熊谷。また熊谷駅は、上越新幹線や秩父鉄道線への乗換駅として知られる。江戸時代にも熊谷は、中山道と秩父往還(埼玉県秩父市、雁坂峠経由で甲斐国へ至る道)の分岐点であり、交通の要所であった。

 熊谷駅の北西には、八木橋百貨店というデパートがある。実は、そのデパートの通路が旧中山道となっている。残念ながらデパートは開店前だったので、中の通路を歩いてみることは叶わなかった。

 八木橋百貨店の後は、熊谷宿の本陣や札の辻などがあった場所をチェックしてから、次の宿場に向かう。

 実は熊谷から先は、国道17号と旧中山道は大きく離れたルートを通る。 最終日は出来るだけ旧道を走ろうと思っていたのだが、通っている道が旧道ではないことに気づいたのは、かなり後になってからだった。 熊谷から先の国道17号はしばらく直線であり、旧道と新道が分かれるポイントは、事前に調べないと分からなかった。

 幸いなことに、熊谷駅から2駅隣の、吹上駅の手前で旧中山道と合流した。熊谷宿を発ってから、30分弱経っていた。

 吹上駅の先で、旧中山道と高崎線の線路が交差する。線路を渡る時、ちょうど遮断器が下りているタイミングだったので、上野行きの電車を見送る。 15両の電車を見たのは久々だ。東海道自転車旅の平塚でも、同じ状況だった。その時と同様に、関東圏の人の多さを覚悟する。

 なお、ここ吹上には、間の宿という休憩用の町場があった。これは、熊谷宿と鴻巣宿は4里以上も離れていたこと、そして吹上が両宿場のほぼ中間にあるためである。




 また、吹上は千人同心街道が中山道と交差する場所でもあった。 千人同心街道は、今の東京都八王子市にて甲州街道と分岐し、埼玉県入間市、東松山市経由で吹上に至り、吹上からは行田市、群馬県館林市を経て、栃木県佐野市で日光例幣使街道(倉賀野宿のページ参照)に合流する、南北の街道であった。 なお行田は、石田三成が水攻めをした忍城で知られるように、当時は忍(おし)と呼ばれていた。

 閑話休題。踏切から1km弱のところに、現代の旧中山道の石碑があった。それによると、ここまで京都・三条大橋から122里弱。そして、江戸・日本橋まで13里弱。既に中山道自転車旅も、9割近く終わっていることを改めて認識する。

 そこからまた1里弱進むと、ここが「箕田追分」であったことを示す案内板があった。北鴻巣駅の近くである。

 案内板を読み進めていくと、ここが北への道の分岐点であること、そして案内板にあった当時の絵から、その道は「館林道」と言うことが分かった。 後で調べてみると、館林道を使った人は、先述の千人同心街道と行田(忍)で合流して、館林方面に向かったことが判明した(※)

 さらに1里弱進み、鴻巣宿も差し迫ったところで、見かけたコンビニに立ち寄る。中山道でも宿場間距離が3番目に長いこの区間の走行に少し疲れたので、一息入れるため、飲料を購入。流石に朝食に大盛の牛丼食べたので、おにぎりやパンは買わなかったが。



(※)『日光脇往還 歴史の道調査報告書 4』(埼玉県教育委員会 1985)
  p14「館林道」に、「中山道の鴻巣追分(箕田)から分れて袋村(現吹上町)から行田へ入り、行田で日光脇往還と合流する道として館林道がある」とある。


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